【松陰神社】御朱印・見どころ・ご利益・パワースポット・駐車場

松陰神社 大鳥居 東京都の神社

松陰神社は東京都世田谷区に鎮座する神社です。

幕末の偉人、学問の神様として知られる吉田松陰をご祭神としてお祀りしている神社です。

幕末の動乱期を生き、若き志士たちを育て上げた松陰の思想は、今もなお人々の心に響いており、松陰神社は多くの参拝者で賑わっています。

この記事では、まず吉田松陰の生涯に触れてから、松陰神社の歴史やご利益、境内の見どころなどを詳しく解説していきます。

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吉田松陰の生涯

吉田松陰先生

出生と幼少期
文政13年(1830年)、長州藩萩城下の松本村に、杉百合之助の次男として生まれた松陰は、幼い頃から聡明な子供として知られていました。
数えの6歳で叔父である吉田大助の養子となり、吉田家を継ぎます。吉田家は代々、山鹿流兵学の師範を務める家柄であり、松陰は幼い頃から兵学を学び始めます。

勉学と才能
幼い頃の松陰は、すでに並外れた才能を発揮していました。
9歳で藩校明倫館の兵学師範の見習いとなり、11歳で藩主・毛利敬親に兵法書「武教全書」を講義するほどの才知を見せつけます。
13歳で長州軍を率いて西洋艦隊撃滅演習を実施し、その才能は藩内でも広く知られるようになりました。
これらの類まれな学才と自らが開いた松下村塾から多くの偉人を輩出したことから学問の神様として崇められています。

日本を守るために
松陰は、西洋列強の進出を目の当たりにし、日本の危機感を募らせます。
長崎や平戸を訪れ、西洋文明に触れ、日本の現状と未来について深く考えます。日本を守るためには、西洋の学問を取り入れ、国を強くすることが必要だと確信し、西洋の知識を吸収しようとします。
そのためには欧米諸国に直接赴いて知識と技術を吸収すべきだと考えるようになりました。

アメリカへの密航を決断したが失敗
当時は鎖国令により海外への渡航が禁じられていましたが、吉田松陰と弟子の金子重輔(かねこ しげのすけ)は密航を決断。アメリカのペリー来航時、旗艦のポーハタン号に小舟で近づき、ペリー提督に対し二人の乗船とアメリカへ訪問を願い出ましたが、ペリーは二人を連れていくことを拒絶し、二人は悄然と立ち去ることになりました。

投獄と松下村塾の開講
密航に失敗した吉田松陰と金子重輔は幕府に自首しましたが、松陰の行動は幕府によって危険視され、投獄されてしまいます。
獄中では、自らの思想を深め、多くの書物を読み込みました。
そして、出獄後、松下村塾を開き、若者たちに学問を教え始めます。松下村塾では、兵学だけでなく、経学や洋学など、幅広い学問が教えられました。

松下村塾と門下生たち
松下村塾には、高杉晋作、久坂玄瑞など、後の明治維新を担う人材が集まりました。
松陰は、彼らに国を愛し、自ら考え行動することの大切さを教えました。松陰の熱意と人柄に惹かれ、門下生たちは彼を師として敬い、自らの命を懸けて国のために尽くそうと誓いました。

松陰の主な門人(門下生)

松下村塾には、約90名の門下生がいたとされています。その中でも特に有名な人物を以下にご紹介します。

  • 久坂玄瑞(くさか げんずい):高杉晋作とともに「松門の双璧」と呼ばれ、尊王攘夷運動の中心的存在として活躍しました。
  • 高杉晋作(たかすぎ しんさく):奇兵隊を組織し、幕府軍を破るなど、長州藩の改革を牽引しました。
  • 吉田稔麿(よしだ としまろ):松陰の弟であり、兄の志を引き継ぎ、明治政府で活躍しました。
  • 入江九一(いりえ きゅういち):尊王攘夷運動に深く関わり、明治政府の要職を歴任しました。
  • 伊藤博文(いとう ひろふみ):初代内閣総理大臣を務め、日本の近代化を推進しました
  • 山縣有朋(やまがた ありとも):陸軍軍人、政治家として活躍し、明治政府の要職を歴任しました。
  • 品川弥二郎(しなかわ やじろう):官僚、政治家として活躍し、明治政府の要職を歴任しました。
  • 山田顕義(やまだ あきよし):武士、政治家、陸軍軍人として活躍しました。
  • 野村靖(のむら やすし):武士、政治家、子爵として活躍しました。

安政の大獄で処刑
しかし、松陰の活動は再び幕府の目を引き、再び投獄されてしまいます。そして、文久3年(1863年)、29歳の若さで処刑されてしまいます。

辞世の句
処刑される直前、松陰は以下の辞世の句を詠みました。

「身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 大和魂は くたせず」

この句は、たとえ体が滅びても、日本の魂は決して滅びないという、松陰の強い意志を表しています。

松陰の思想と影響
松陰の思想は、後の明治維新に大きな影響を与えました。
彼の「尊王攘夷」の思想は、多くの志士たちの心を揺さぶり、日本の近代化を加速させる原動力となりました。松陰の死後も、松下村塾の教えは、多くの若者たちの心を捉え続け、日本の未来を切り開く人材を育成し続けました。

松陰の生涯は、日本の歴史において、決して忘れることのできないドラマです。彼の熱意と行動力、そして深い思想は、今もなお、多くの人々に感動と勇気を与え続けています。

松陰神社の由緒・歴史

吉田松陰は、尊王攘夷の思想を掲げ、若者たちに国を愛し、自ら考え行動することの大切さを教えました。しかし、その思想は幕府によって危険視され、安政の大獄により投獄・処刑されてしまいます。

松陰の死後、彼の門人たちは師の霊を慰め、その偉業を後世に伝えたいと強く願いました。
松陰の遺体は当初、小塚原回向院に葬られていましたが、門人たちはよりふさわしい場所に改葬することを決意します。

松陰の門人たちは、師の遺体を現在の世田谷区若林に改葬しました。この場所は、松陰が晩年を過ごした場所であり、松陰にとって特別な意味を持つ場所でした。

改葬後、高杉晋作と伊藤博文などの門人たちは松陰の墓所のそばに神社を建立することを決意します。そして、明治15年(1882年)、松陰神社が創建されました。

松陰神社のご祭神

伊藤博文をはじめとする多くの優れた人材を育てた教育者、吉田松陰先生を祀っています。

ご祭神:吉田松陰

御号は、吉田寅次郎藤原矩方命
(よしだとらじろう ふじわらのりかたのみこと)

松陰神社のご利益

松陰神社は、吉田松陰の思想である「尊王攘夷」や「学問の大切さ」といった精神を受け継ぎ、参拝者に以下のご利益をもたらすとされています。

  • 学業成就・合格祈願
  • 所願成就・開運商運アップ
  • 人格形成
  • 国家への貢献

学業成就
松陰が教育者であったことから、特に学業成就のご利益があるとされています。受験生や学生が、目標とする学校に合格できるよう、祈願に訪れる人が多くいます。

志の実現・開運商運
松陰は、志を持って行動することの大切さを説きました。そのため、自分の目標に向かって努力したい人や、志を高く持ちたい人にとって、力強い後押しとなるでしょう。

人格形成
松陰の思想は、人格形成にも大きな影響を与えます。正義感や責任感、誠実さなどを養いたい人にとって、参拝することは良い機会となるでしょう。

仕事運向上、家内安全
松陰は、国を愛し、国のために尽くすことを大切にしました。国家に貢献したいという気持ちは、職場である会社に貢献し、さらに最も身近な家族への貢献にも通じると考えられています。

松陰神社の見どころ

御社殿

松陰神社 御社殿

神社の創建時に、伊藤博文、山縣有朋、井上馨、乃木希典などの方々によって建設された社殿は、現在本殿の内陣として使用されています。

現在の社殿は、昭和2年から3年にかけて、明治時代の元勲や崇敬者たちによって建設されました。

松陰先生他烈士墓所

松陰神社 松陰先生他烈士墓所

松陰神社には、吉田松陰を含む烈士他10人のための墓所があります。
中央に吉田松陰先生、中心から右側が小林民部、頼三樹三郎の墓石、中央から左が米原良蔵、福原乙之進の墓石です。

墓所には、吉田松陰の墓碑をはじめ、頼三樹三郎や小林民部、来原良蔵、福原乙之進、綿貫次郎輔、中谷正亮など、他の烈士たちの墓碑も存在しています。

文久三年(1863年)の正月、高杉晋作、伊藤博文、山尾庸三、白井小助、赤根武人らは、松陰先生の遺体を千住小塚原の回向院から世田谷若林大夫山の楓の木の下に改葬し、先生の霊が安らかに眠る場所としました。同時に、頼三樹三郎と小林民部も回向院から改葬されました。

その数日後、来原良蔵の墓も芝青松寺から移されました。同年の11月には福原乙之進が埋葬されました。

禁門の変の後、長州征伐の際に幕府によって松陰先生を含む墓は破壊されましたが、木戸孝允らの手によって明治元年(1868年)に松陰先生の墓が修復され、さらに綿貫治良助が埋葬され、中谷正亮は芝清岸院から改葬されました。

また、長州藩邸没収事件に関わる人々の慰霊碑も建立されました。明治2年には整武隊長官が鳥居から墓前に至る道に石を敷き、参拝しやすくしました。こうして墓域は完成し、忠魂が鎮座する場所となりました。

石灯籠

松陰神社 石灯籠

境内には毛利元昭公をはじめ、伊藤博文や山縣有朋などの先生の門下生から寄贈された32基の石燈籠があります。

これらの燈籠に刻まれた文字は、書家の竹山先生による八分隷書体であり、貴重な文化財とされています。

松下村塾

松陰神社 松下村塾

上は松下村塾の入り口、下は講義室です。

松陰神社 松下村塾

松陰先生の教育道場である松下村塾は、叔父の玉木文之進が天保13年(1842年)に寺子屋を開設し、松下村塾の名を掲げたことから始まりました。

塾長は、玉木氏が公務で多忙な間、久保五郎左衛門が安政4年(1857年)までその役割を引き継ぎました。
その後、松陰が再び投獄されるまでの間、玉木氏や兄の杉梅太郎らによって明治25年頃まで運営されました。(玉木氏は明治9年に亡くなりました)

松陰先生は嘉永5年(1852年)に23歳の時、約半年間、安政2年(1855年)に26歳の冬に出獄し(米艦への乗船を企てて投獄されていた)、安政4年(1857年)11月まで杉家で子弟を教育していました。
この月の5日には初めて八畳一間の塾舎が完成し、松陰はこの時から塾に住み込み、塾生に対して実践的な教育を行いました。

塾生が増え、手狭になったため、安政5年(1858年)3月に十畳半の増築が行われました。松陰が名実共に公に認められたのは、安政5年7月20日、29歳の時に藩主から家学(山鹿流兵学)の教授を許可されたことからであり、その後同年12月の安政の大獄で投獄されるまでの5ヶ月間のことでした。
実際に松陰が塾生に教育を施したのは、安政3年8月頃から安政5年末に投獄されるまでの約2年半にわたるようです。

松下村塾で学んだ塾生は約90人ほどとされており、久坂玄瑞や高杉晋作、前原一誠、山縣有朋、品川彌二郎、伊藤博文など、明治維新を経て近代日本の発展に大きく寄与した多くの優れた人材を輩出したことで知られています。

吉田松陰先生像

松陰神社 松陰像

松陰神社のご鎮座130周年を記念して、東京藝術大学に依頼し、約1年をかけて大熊氏廣(安政3年:1856年~昭和9年:1934年)が制作した石膏像の調査と修復を行いました。

その後、ブロンズ像の鋳造が行われ、平成25年4月に完成し、同年の春季例大祭に合わせて、完成除幕式が行われ、境内に安置されました。

御神輿(本社・二宮)

松陰神社 御神輿2基

左が本宮神輿、右が二宮神輿

松陰神社は創建以来、宮神輿を持っていませんでしたが、平成11年7月に多くの方々のご支援を受けて「松陰神社宮神輿」が新たに建造されました。

そして、平成11年10月24日には松陰神社の例大祭に合わせて行われた萩世田谷幕末維新祭りにおいて、第1回の渡御が華やかに行われました。

松陰神社の御朱印・お守り

御朱印は2種類、普通の正月御朱印符(初穂料:500円)と正月切り絵御朱印符(初穂料:1,500円)があります。

松陰神社 御朱印 新年正月

2025年元旦、参拝した証として上の正月御朱印符を拝受いたしました。下は切り絵御朱印符です。

松陰神社 切り絵御朱印

お守り類は、お神札・木札、合格祈願お守り、勉学祈願お守り、交通安全祈願お守り、開運厄除けお守り、健康長寿お守り、大願成就お守り、仕事開運お守り、病気平癒お守り、安産子宝お守り、えんむすびお守り、勝守(松陰先生直筆写)、勝絵馬(松陰先生直筆写)など豊富な種類の授与品が用意されています。

松陰神社の基本情報

 【社名】松陰神社
【所在地】東京都世田谷区若林4丁目35−1
【電話】 03-3421-4834
【拝観時間】 年中無休
【開門~閉門】7時~17時
【ウェブサイト】https://www.shoinjinja.org/

アクセス・最寄り駅・ルート

【最寄り駅】
東急世田谷線 松陰神社前駅下車徒歩3分

【徒歩ルート】

【自動車ルート】

駐車場

松陰神社 駐車場

大鳥居の右側のタイムズ松陰神社前第6駐車場

松陰神社直営の駐車場はありません、神社に隣接する以下のタイムズ駐車場をご利用ください。

  • タイムズ松陰神社前第6
  • タイムズ松陰神社前第5
  • タイムズ松陰神社前第4

下の地図の赤紫色が対象の駐車場です、クリックすると駐車場の詳細情報が表示されます。

記事まとめ

松陰神社は、幕末の志士たちの熱い想いと、未来への希望が交差する場所です。

吉田松陰は学問の神様として知られ、志を持って行動することの大切さを説いたことから、多くの人々が目標達成や自己成長祈願に訪れ、人格形成など多くのご利益があるとされています。

吉田松陰の教えは、今もなお多くの人々に影響を与え続けています。ぜひ一度、松陰神社を訪れて、歴史と文化に触れてみてください。きっと、新しい発見があるはずです。

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