天満宮と天神とは?
天満宮や天神社は菅原道真公をご祭神とする神社のことです。
菅原道真公の神霊に対する信仰は天神信仰と呼ばれており、天満宮や天神社は天神信仰にかかわる神社のことです。
天神信仰にかかわる神社の数は、関東三大天神の一つである谷保天満宮の宮司に伺ったところ全国に約12,000社にも上るそうです。
全国12,000社の天満宮・天神社の総本社は北野天満宮であり、代表的な天神社は以下のとおりです。
【日本三大天神】
【関東三大天神(江戸三大天神)】
菅原道真はどんな人?
菅原道真は平安時代に学者、文人出身でありながら異例かつ華々しい大出世を果たした政治家です。
- 5歳で初めて和歌を詠んだ
- 11歳で漢詩「月夜見梅花」を詠んだ
- 15歳の元服したときから朝廷に奉る文章などを代作した
- 18歳で文章生(もんじょうしょう)となる国家試験に合格
文章生とは大学寮で漢詩や歴史などを学び試験に合格した者のこと - 23歳で文章博士となった(文章生に教える教授)
- 42歳で讃岐守(さぬきのかみ、香川県長官)に就任
- 47歳で式部少輔(しきぶのしょうゆう)に就任
- 50歳で遣唐大使に任じられたが遣唐使廃止を提言
- 53歳で権大納言に任じられ、右大将・中宮太夫も兼任
- 55歳で右大臣に就任、後に従二位に叙された
道真が47歳の時に宇多天皇が即位、ほぼ同時に式部少輔(役人の人事面を司る官職の次官)に就任。宇多天皇から篤い信任を得るようになり、道真の進言が実際の政治に生かされるようになり右大臣まで出世しました。
右大臣は左大臣に次いで地位が高い官職であり(現在の副総理)、文人出身として右大臣まで出世した異例の政治家でした。
菅原家は代々、学問に通じ出世していった家柄であり、中には従三位以上まで出世し公卿に列せられた人物を輩出するほどでした。
道真の曾祖父と祖父も文章博士であり、遣唐使として唐に渡ったことがありましたが、道真は当時、唐は国が衰えており往復のリスクを考えたら遣唐使を廃止した方が良いと進言しそれが朝廷から受け入れられました。
代々遣唐使に関わってきた家系の子孫であったにもかかわらず、正しい判断のために「名を捨てて実を取る」ことができた人間的に優れた人物だったといえます。
このように、道真は政治の能力が高いだけでなく、人間的な魅力も備えていた人物であったことから同僚や部下からも慕われていたといわれます。
しかし、能力が高く、人々からの人気も高く、異例の出世を果たした道真を怖れ、妬んでいた左大臣の藤原時平など道真のことを快く思っていなかった人たちが陰謀を企てました。
道真の娘は醍醐天皇の弟である斉世親王(ときよしんのう)の妻でしたが、藤原時平などは醍醐天皇に次のような讒言を吹き込んだと言われています。
「道真はあなた(醍醐天皇)を廃して、道真の娘が嫁いだ斉世親王を天皇にしようと企てていますよ」
この讒言によって道真は左遷させられてしまったのです。太宰権師(だざいのごんのそち)という、大臣を経験した者の左遷ポストに送られてしまい、政治の中心の京都から大宰府に流されてしまったのです。
そして、左遷から3年後の延喜3年(903年)2月25日に大宰府でお亡くなりになりました。
怨霊だった菅原道真が神様になった?
菅原道真公が左遷された大宰府で不遇のうちに亡くなられてから、京都の宮中で数々の奇妙なことが連発しました。
- 藤原時平の陰謀に加担した藤原菅根が落雷に打たれて死去
- 時平も39歳の若さで突然亡くなった
- 皇太子の保明親王(やすあきらしんのう)も21歳の若さで死去
- 干ばつ・洪水や疫病が流行
- 宮中の清涼殿で雨乞いの協議中に大納言の藤原清貫(ふじわらのきよつら)が落雷で死去
- その際、平希世(たいらのまれよ、歌人)も負傷した
- 藤原清貫の死去にショックを受けた醍醐天皇が突如病気になり死去
当時は怨霊に対する信仰や雷神信仰が盛んであったので、菅原道真の怨霊がこれらを引き起こしたと考えられました。
- 菅原道真は、天変地異を引き起こす「天神」
- 菅原道真は、雷を落とす「雷神」
というように、道真は災いを起こす怨霊(祟り神)と見なされました。
そのような道真公の祟りを鎮めるために北野天満宮に社殿が建てられて、道真公に正一位左大臣の位が追贈されて北野天満宮に祀られて神様となりました。
北野天満宮に祀られている天神はもともと「雷公(らいこう)」として信仰されていたため、雷公の天神と道真公が習合されて(同一視されて)道真公と雷神信仰が結びついていきました。
学問の神様となった菅原道真公
雷神信仰はしだいに薄れていき、道真公の学問に対する偉大な事績と優れた人間性から、天神信仰は文芸・詩歌・書道の神様として崇められるようになりました。
とくに江戸時代になると読み書きそろばんを教える寺小屋が増えていき、学問の神として天神を祀るようになりました。
寺小屋では毎月「天神講」を営み、道真公の姿を描いた天神像を子供たちが拝むようになり、道真公を「学問の神様」として崇拝することが定着しました。
天神講(てんじんこう)とは:
学問の神様である菅原道真公を偲び、子どもたちの健やかな成長や学業成就などを願う風習。
天満宮・天神社に梅がある理由
天満宮や天神社には必ず「梅印」があり、「梅林」が植えられています。
なぜでしょうか?
その理由は菅原道真公が大の梅好きだったからです。
道真公は左遷前の京都の邸宅に植えていた「紅梅殿」という梅の木をとても大切にしていました。大宰府に左遷されることになり紅梅殿との別れを悲しんだ道真公は以下の歌を詠んでいます。
東風(こち)吹かば、にほいをこせよ梅の花、主(あるじ)なしとて春な忘るな
(家の主である私が大宰府に行ってしまっても、春を忘れずに花を咲かせ、都から吹く東風にのせて梅の匂いを大宰府まで届けてくれ)
また、大宰府に行ってしまった道真公の後を追って紅梅殿が一夜のうちに飛んで行ったという「飛梅伝説(とびうめでんせつ)」が広まり、天満宮や天神社に梅が植えられるようになったといわれています。
天満宮・天神社に牛がいる理由
ほとんどの天満宮では牛の銅像を置いています。
その理由には諸説あるようです。
たとえば、道真公が、丑(うし)の年に生まれ、丑(うし)の日に亡くなられたからという説(承和12年(845年)6月25日に誕生、延喜3年(903年)2月25日に逝去)。
また、道真公が亡くなられた時、「人にひかせず牛の行くところにとどめよ」との御遺言により亡骸を牛車で運ばせたからという説もあります。
生誕日と死亡日は確かなことであり、おそらく御遺言もお書きになったはずなので道真公は牛と縁が深かったことは間違いないようです。
天満宮・天神社の牛が座っている理由
菅原道真公は「人にひかせず牛の行くところにとどめよ」という御遺言を残されたといわれています。御遺言のとおり、牛が止まり座り込んだ場所を安楽寺として道真公の亡骸が埋葬されました。
牛が座り込んだのは、ここに埋葬してほしいという道真公の御意志に従ったからだといわれています。
その後、醍醐天皇の勅命により、亡骸が埋葬された安楽寺の境内には太宰府天満宮が造営され、廃仏毀釈により安楽寺は廃寺(はいじ)になり、大宰府天満宮だけが残り今日に至っています。
天満宮にはどんなご利益がある?
学問の神様である菅原道真公を祀る天満宮には学業成就・合格祈願・昇進祈願を叶えてくれるといわれています。
また、天満宮によっては立身出世、厄除けや縁結びなどさまざまなご利益があり、学生から社会人まで多くの人が天満宮や天神社を参拝しています。
まとめ:天満宮・天神・天神信仰とは?
- 天満宮や天神社の御祭神は菅原道真
- その信仰は天神信仰と呼ばれている
- 菅原道真を祀った神社は全国に約12,000社もある
- 菅原道真は学者・文人として右大臣まで出世した政治家
- 陰謀にはめられて大宰府に左遷されてしまった
- 道真は梅を大切にし、飛梅伝説も生まれた
- 道真が亡くなってから宮中で突然死が続いた
- また天変地異も発生した
- これらは道真の祟りによる仕業とされた
- 道真の祟りを鎮めるために北野天満宮に社殿が作られ雷神信仰になった
- 道真は牛とも深い関りがあった、座牛が安楽寺への埋葬に導いた
- 埋葬された安楽寺の境内に太宰府天満宮が造営された
今回のテーマについては以上です、天満宮や天神様に参拝される際の参考となれば幸いです。
コメント